日本の失われた30年⑧ 新潟へ

宇宙飛行士の第2次選抜に挑戦した時、私は5日間の有給休暇を取りました。季節外れの長期休暇です。さすがに会社に事情を説明せざるを得ませんでした。

すると普段はあまり話もしなかった方々から、頻繁に食事に誘われたりするようになりました。
「ねえねえ。宇宙に行ってからもさぁ、必ず連絡ちょうだいね」
「い、いえ課長、まだ選抜は始まったばかりですから・・・」

そんな第2次選抜に不合格だったという通知が届いた頃、多摩工場では桜が満開でした。多摩工場にはいろいろな種類の桜が植えられていましたが、それはかつてこの合板事業が、本社と別の会社の合弁事業だった頃、相手の会社の出身者だった初代社長が集めたものだと聞きました。

その後、先方が合板事業から撤退した時、桜と共に多くの社員が多摩工場に取り残されてしまったのです。

まだまだ完成度の低かったST工法に本社の幹部が飛びつき、工法切替えを名目に多摩工場の取り壊しを急いだ背景には、少し生臭い理由もあったのかもしれません。そんな微妙な空気の中、両方の社員の融和を目指したことが仇になり、私は厄介な問題に巻き込まれつつありました。

「のど元過ぎれば、熱さを忘れる」

設備は正常に動いているのが当たり前、緊急事態も収まれば最初から何もなかったのと同じです。私の死に物狂いの努力で新工場が救われたという事実が社内で広く認知されることはありませんでした。

その一方で、私が新工場プロジェクトに反対したという事実だけがいつまでも問題にされました。新工場の竣工式にも、私だけが呼ばれなかったのです。

こうして会社が無意味な足踏みをしていた5年の間、中国大陸では海賊商品が出現し急速に売上を伸ばしていました。それは当初、ロゴやパンフレットのデザインまで真似た粗悪品に過ぎませんでしたが、いつの間にか見違える程に品質を改善し、本社の営業マンですら彼我の商品の見分けがつかない程に急成長していたのです。

合板事業の立て直しは急務でした。

ST工法の混乱もようやく一段落し、そろそろシェア奪回のための手を考えなければと思いました。自分の会社を、世界一の会社にしたいと思いました。

そんな折、多摩工場の桜もすっかり散った頃のこと、私は突然、工場長に呼び出されました。そして米国テキサスへの転勤を命じられたのです。急な話に驚きました。

「テキサスにね、潰れそうな子会社があるんだけどさ。特に仕事はないし、期限もない。荒野の真ん中で何もない所らしいから君にぴったりだ。一生のんびりできるよ。まあ、良い話なんじゃないかなぁと僕なんかは思うんだけどね」

そう言われても、直ぐには状況が理解できません。私は転勤の理由を尋ねました。

「シャトルコーターの件でプレジデント表彰されてしまった君を、こんな所に置いておいて他の事業部から引抜かれたりしたら困る。それにねぇ、そもそも君は現場から信頼され過ぎているんだよ。君は本社から来ているエリートなのだから、素直に事業の発展だけを考えるべきなんだ」

この時は、特に仕事がないなら異動の理由もないことを訴えて一旦は事なきを得ました。

「い、いや、別に正式な話だったというわけじゃないんだ。正式に決まったことだったら、きちんと従って貰わなければ困るがね」

その翌月、再び工場長から呼び出され、今度は新潟への転勤を命じられたのです。

「特命プロジェクトを立ち上げているんだが、緊急事態らしい。君の他に頼める人材がいないんだ。君の社宅はもう決まっているから明日新潟で入居手続をしてきなさい。送別会は明後日だからね。必ず出席するように」
「明後日ですか・・・」

どうやら私は会社に居てはいけない人間になってしまったようでした。その送別会で大きな白ゆりの花束を貰いましたが、そのとてつもなく大きな花束を抱え、帰りの満員電車の中で私は途方に暮れました。

「新潟とはどんな所だろう? 特命プロジェクトとは何なのか?」
「吉川君、良く来てくれた。また新しい工場が動かないで困っている。先般の新工場プロジェクトの時も君だけが技術者として筋が通っていたと思う。また奇跡を起こして私を助けてほしい。大いに期待しているよ」

しばらく姿の見えなくなっていたST工法の責任者が、新潟の特命プロジェクトの責任者になっていました。相変わらずの計画性の無さが気になったので、私は課題を分析し、やるべきことを伝えました。

「奇跡に期待されても困ります。当社の設備の現状では競合他社並みの製品を作るのは不可能です。1日も早く工法を切り替える必要があります。もし追加投資が困難でしたら、この事業からは撤退すべきだと考えます」

「吉川君、なぜ君はそうやって数字を振り回して計画を批判し、困難から逃げるのか? 事業として意味があろうとなかろうと常に新しいことに果敢に挑戦し、どこまでも困難を乗り越えて行くのが技術者魂と言うものじゃないか!」
「そうでしょうか?」

2年後、やはりこのプロジェクトは失敗に終わりました。立派な蟹料理店で解散会が開かれました。しかしコップにいくら雪中梅を注がれても少しも酔いが回りません。

「みなさん申し訳なかったですね。みんなで精一杯やったのですが・・・」

そうではないと私は思いました。それは2年前にすべき決断でした。この仕事に意味はあったのか? 会社はどうして無意味な失敗を繰り返すのかと・・・

私が新潟で最後に担当したのは特殊な断熱材の量産化でした。今度こそしっかりした職場を作ろうと思いました。毎日現場を歩き、作業者の苦情を聞いて回りました。

そこは天井が高く風が吹き抜ける巨大な工場の廃墟の一画をトタン板で仕切っただけの薄暗い作業所でした。ある雪の日の氷点下の夜、徹夜の立ち仕事を余儀なくされているのだという作業者の皆さんの様子を見てなんとかしなければならないと私は思いました。

「ここは寒いですねぇ。暖房くらいは付けなきゃいけないね」
「いいえ、ここは昔から寒いんです。これで大丈夫です。私たちってコストなのでしょう。コストにお金をかけることはありません。そのお金は、会社の発展のために使って下さいな」

長年、日本的経営とも呼ばれたビジネスモデルを陰で支えて来た現場の皆さん・・・雪国の人達は我慢強い方が多いようです。とはいえそんな状況を放っておくわけにはいきません。

「現場で頑張る皆さんのために、私に何ができるだろうか?」

ちょうどその頃、私は工場の生産性を40倍に改善するプロジェクトを提案し、実行しつつありました。そのために確保していた予算をどうにか遣り繰りし、現場に壁と照明と暖房を設置しました。我慢しますと言っていた作業者の皆さんはとても喜んでくれました。モチベーションは上がり、それが当初の想定以上の生産性向上とコスト削減に繋がったのです。断熱材課の後加工工程は文字通り「明るい」職場になりました。

しかし・・・ 後加工ばかりが明るくなって不公平だという声もどこからか聞こえて来ていたのです。

「何をやっても物事はなかなかうまく運ばない。私の何が間違っているのだろうか?」

そんな思いに囚われました。
頑張れば頑張るほど、自分の居場所はなくなっていきます。

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