「私は、一生の間にどんな方々と出会うことができるだろうか?」
一旦は塗装工場で精一杯に頑張ろうと思いましたが、私は次第に外の世界に憧れるようになりました。もっと広い世界で素晴らしい方々と出会い、自分を磨くことはできないか? もっと広い世界で、自分の技術者としての可能性を力いっぱい確かめてみることはできないか・・・
自分の可能性を広げようと、英検や情報処理、簿記にも挑戦しました。しかし英検は何回受けても合格できず、初歩の情報処理試験にも失敗。簿記は2級まではなんとか取得できたものの、1級はテキストの内容さえ理解できず全く歯が立ちません。
小さな塗装工場の片隅で、とうとう私は完全に目標を見失ってしまいました。自分はダメな人間らしいと落ち込みました。
そんなある日、
私は本屋のレジに「宇宙飛行士募集」と書いたしおりが置いてあるのに気が付きました。
「宇宙飛行士?」
なんとなくそのしおりを手に取って帰りました。
「宇宙飛行士かぁ。どんな人が受けるのだろう?」
しおりに書いてある説明を読んでみましたが、応募条件は自然科学系の大学卒業をした者で実務3年以上と書いてあるだけです。
「ふーん、塗装工場で働いていても応募だけはできるんだ」
少しわくわくしてきました。願書をよく読んでみたいと思いました。
しかし翌日になって、宇宙開発事業団へ電話をかけた時、なんだか自分は馬鹿なんじゃないかという気もしてきました。
「あの、宇宙飛行士選抜の資料と願書が頂きたいんですけど、まあその、私は今31歳で、塗装工場で働いてはいるんですが、一応大学院も出ておりまして・・・」
「はいはい、それで送り先はどちらでしょうか?」
電話で応対して下さった方は極めてビジネスライクでした。やがて手許に宇宙開発事業団の願書が届きました。
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<国際宇宙ステーション搭乗 宇宙飛行士候補者 募集要項>
我が国は、米国が提唱した宇宙ステーション計画に欧州、カナダと共に参画しています。宇宙ステーションは高度約400kmの地球周回軌道上に建設される恒久的有人施設で、これに我が国独自の実験モジュールを取付け、無重力環境における材料実験・ライフサイエンス実験並びに科学観測・通信実験等を行います。宇宙ステーション計画における宇宙飛行士の任務は、宇宙ステーションの組立・運用、各種実験装置の操作などの作業を宇宙という特殊な環境の中で円滑かつ確実に遂行することです。このためには各分野の専門知識、技術、高度な判断力などが要求されることはもちろん、心身ともに健康であって、長期間の軌道上滞在と各国宇宙飛行士との共同作業のための協調性、ユーモア、語学力などが要求されます。
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隅から隅までじっくり読んでみましたが、やはり塗装技術者でも応募は可能なようです。
「ユーモアと語学力っていうのだけは、ちょっと自信ないけどな」
応募準備で困ったのは論文でした。塗装工場勤務だったため論文を発表したことなど一度も無かったのです。
しかし問い合わせてみたところ、特許でも代用可とのことでした。であればシャトルコーターの特許がありました。これで論文はなんとかクリアです。英語能力証明書類については、残念ながらスコアが今一歩ではありましたが、手許のTOEICの成績表をそのまま出すしかありませんでした。
さしあたって現実的に一番難しかったのは経歴でした。それを書いてみようと机に向かった時、何もアピールすべきものが無い自分のキャリアを改めて思い知らされたのです。
恥ずかしくて友人にも言えなかった塗装工場での勤務を、宇宙飛行士の願書に書いたらどうなるのか? しかし現実は現実ですからやってみるしかありません。この時、塗装を「塗装」と書かずに「コーティング」と表現したことが、私にできた精一杯の努力でした。
こうしてどうにかこうにか揃えた大量の書類を持って、私は汚れた作業着のまま郵便局に書留を出しに行きました。
「すみませーん、こんにちは! 今日はこれを書留で出したいのですが・・・ 受取先は宇宙開発事業団です!」
そう言って、宇宙飛行士募集係御中と大書した大きな封書をカウンターの上にポンと置いた時、受付の女性が激しく笑い出しました。
「宇宙飛行士ですかぁ? ふふっ」
「いやぁ、私、やっぱりおかしいですよね?」
「あら、ごめんなさい。そんなことはないですよ。夢があっていいじゃないですか。ぜひ頑張って下さいね」
そう言いながら、受付の方の目はいつまでも笑っていました。確かに自分でも愚かな挑戦だと思いました。
でもどの程度、自分が頑張れるものなのか? この困難な目標に挑戦してくるのは一体どんな人達なのか? ということを私はどうしても自分の目で確かめたかったのです。
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