日本の失われた30年⑮ 技術の道、会計の道

会社はマネージメントの失敗で何度も厳しい状況に陥っていました。その度に技術力が必要だと叫ばれました。日本は技術立国であり、会社は技術の力で生き残るのだと・・・

しかし私はそれに疑問を感じ始めていました。

「技術力」という便利なキーワードが、会社がマネージメントの問題点にしっかり向き合わないことへの言い訳になっていると感じたからです。

「本当に技術力が問題を解決するのだろうか? そもそも技術力って何なのだろう?」

技術は楽しい仕事です。自分の夢やアイディアが形となって実現していく時の達成感は忘れることができません。

しかし技術者は製造業の競争力の根幹を担う存在でありながら、一般にビジネス知識の教育を受けていません。それ故に技術者は自分の専門分野に埋没しがちです。専門分野に熱中するあまり、その技術が利益をもたらすものなのか、事業として成り立つのかどうかについて無関心なことが多いのです。大概は原価計算の知識もありません。これではどんな技術の夢も新規事業も実現できないでしょう。

「どうやら技術とお金の両方を正しく理解し、適切な対話を成立させることができる人材が会社には必要らしい。誰かがこの困難な役割を担わなければならないのなら、私がそれを担おう」
そう考えました。その手始めが簿記でした。

それまで何度、挑戦しても合格できなかった簿記1級に、そろそろ決着をつけようと私は思いました。

2002年の11月、私は7回目になる簿記1級の試験を受けていました。
その時、私は名刺サイズのミニ電卓を使って問題を解いていました。経理計算用の使いやすい電卓が世の中にあることを知らなかったのです。

「なんで他の人は、皆あんなに大きくて邪魔そうな電卓を使っているのだろうか?」
ずっとそう思っていました。

それでも2003年1月の合格発表で、遂に簿記1級に合格できたことを知りました。地区の
合格者はたった一人でした。

翌月の2003年2月1日にはスペースシャトル・コロンビア号が墜落しました。

スペースシャトルは、私が技術者としての進路を選んだ時からの象徴的な存在だっただけに、大きなショックを受けました。この事件で、1つの時代が終わったことを私ははっきり感じました。

そして私は39歳になりました。数えで40歳という節目に、今後の人生を何にかけるべきかと考えました。

思えば私には、技術の知識だけでは解決できないことがたくさんありました。

例えば新製品の開発費を会計上はどう扱うべきなのか? 
新製品に全ての研究開発費を賦課したら、その製品は一度も黒字にならずに沈んでしまうでしょう。かといって全く賦課しなければ本当の収益力が見えて来ません。

そもそも開発プロジェクトが成功していているか、いないかをどう判断すれば良いのか分かりません。どのプロジェクトが支援を必要とし、どの段階で方針転換を提案すべきなのかが分かりません。

コストダウンが成功しているのかどうかも分かりません。更には生産技術には付きものの設備投資においても適切な計算方法が分かりません。

新工法の開発や、新工場の建設がうまくいっているのかどうか分かりません。
自動化の適・不適をどうやって判断すべきなのかも分かりません。

さらに致命的な問題は、私は財務諸表がきちんと読めなかったことです。
少数株主持分とは何なのか? 繰延税金資産とは何なのか? 会社を動かしている数理のダイナミズムとはどのようなものなのか?

そんなことも分からずに、会社に力強い提案が出来るはずはなかったのです。

「吉川課長、もし本気で会計やるつもりなら、こういう電卓を使って下さいな」

簿記1級への合格は新しい自信に繋がっていました。
2003年4月29日、群馬の吉井の小さな神社に詣でた帰り道、私は新しい電卓を買いに行きました。
会計士を目指そうと決めたからです。

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