簿記試験を超えて② 会計士を目指そう!

今でも「技術は楽しい仕事だ!」と思います。

私は世界最高峰のメッキ装置を発明しました。
1週間の工程を1時間にし、2時間の塗装作業を1分にしました。
どこの現場に行っても、厳しい作業から解放された方々の無口な笑顔を見るのが好きでした。
自分の夢やアイディアが形となって実現していく時の達成感は本当にすばらしいものです。

しかし技術者は製造業の根幹を担う存在でありながら、ビジネスに必要な知識を教育されません。株式会社の仕組み、利益を出すことの意味、コスト管理の方法、生産性の測り方、設備投資計画の立て方・・・。

例えば20代の頃、会社は200億円もかけて動かない工場を建設しようとしていました。
その工場が「動かない」ことは技術的に明らかだったので、若気の私はたった1人で役員室を訪問しプロジェクトの危険性を説明したのです。
白いワイシャツを冷たい汗でびっしょりと濡らしながら・・・。

しかし技術論ではプロジェクトを止めることはできませんでした。会社にも私自身にも、もっと会計の知識が必要だったのです。
私は会社を救えませんでした。結果的に会社は、膨大な損失を出しました。

30代の頃には製品開発の「闇」に直面しました。
期待の新製品の量産工場を設計するように命じられた私は、目標80円、実績79.9円だという試作品の原価が、実は800円を超えていたことに気づきました。多くの原価が販管費側に付け替えられていたのです。

工場が設計できずに困った私は、そのからくりを開発責任者に告げざるを得ませんでした。
すると、「役員も喜んでいるんです。開発を妨害しないでいただきたい」
と言われて罷免されてしまったのです。

この時、私は10年前に「動かない工場」が建ってしまった理由をはっきり理解しました。
私は、技術者としての自分の前途に希望を失いました。

2002年の11月、私はとうとう7回目の簿記試験を受けていました。

会社で様々な問題にぶつかるたびにお金の知識の大切さを痛感しましたが、この頃はまだ名刺サイズのミニ電卓で問題を解いていました。経理計算用の電卓が世の中にあることを知らなかったのです。

「なんで他の受験生は、あんなに大きくて邪魔そうな電卓を使っているのだろうか?」
ずっとそう思っていました。

それでも2003年1月の合格発表で、遂に簿記1級に合格できたことを知りました。
地区の合格者はたった一人でした。

翌月、私は39歳になりました。
数えで40歳という節目に、これからの人生を何にかけるべきかと考えました。
一度は前途に絶望しましたが、簿記1級への合格が私の何かを変えたのです。

「日本中で同じ失敗が繰り返されている。日本のモノづくりがどんどん駄目になっていく。
誰かが技術とお金の両方を正しく理解し橋を架けなければならない。
それができる人がどこにもいないなら、私が橋を架けなければ!」

「吉川課長、もし本気で会計をやるつもりなら、こういう電卓を使って下さいな」

目標をもつことは、人に希望と勇気をもたらします。

2003年4月29日、群馬県吉井町の小さな神社に詣でた帰り道、私は新しい電卓を買いに行きました。
会計士を目指そうと決めたからです。

「きっとやり遂げます。何があろうとも」

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