簿記試験を超えて⑧ 絶望の海・希望の小島

「吉川課長は、何かを企んでいる」
会社では、いつの間にか嫌な噂が広がっていました。

何事もなく会社で静かに暮らすには、会計士試験合格は目立ち過ぎたのかもしれません。
奇しくも、10年間ぶりの宇宙飛行士募集再開から2日後の4月3日の朝、まだ3回目の宇宙への挑戦を諦めきれずにくすぶっていた私は、保健室の先生から電話を貰いました。
「ちょっと来ない?」

1年前のレントゲン検査の御礼のお菓子と、受験指導校の合格体験記に載った自分の記事を持って訪問しました。しかし、そこで先生が切り出したのは思ってもみなかった話でした。

「技術者にはお金の知識は必要ないとのお達しです。
もし会社に残りたいならきっぱりと資格を捨てるようにとのことです」

状況は混乱していました。
会社で何が問題にされているのか? 私はどうするべきなのか・・・

「勉強していた時は、それを誰も知らず、何も問題になっていませんでした。
今になって、何が問題にされているのか教えて下さい。
大学院卒だからですか? 資格ですか? れともお金の知識が問題なのでしょうか?」

「最近、誰かから通報があったようです。吉川課長は技術に関係ないことをやっていると・・・
でももう良いじゃないですか。会社なんか、思い切って辞めちゃいなさいよ。
ほら、この合格体験記の表紙にだって『未来のために今すべきこと』って書いてあるじゃない。
皆さんにもそう伝えておくから!」

先生の善意は、小さな野火に油を注いでしまったようです。
どこからどこまでが先生の意見で、どこからどこまでが会社の見解なのか、私には分かりませんでした。
「ま、待って下さい。私はここから逃げ出す積りで勉強していたわけではありません。
そもそも会社に居たら、会計士として公認されるのに必要な実務要件すら満たせないのですから・・・」

思わず熱い何かが、私の冷え切った両頬を伝って落ちました。
しかしその後も野火は燃え広がって行きました。

私はとうとう覚悟を決めるべき時が来たことを知りました。
大急ぎで転職活動に入りました。
しかし既に年齢は40代半ば、まともな仕事が見つかりません。

すっかり技術の道を諦め、しっかり腹を据え直し、
今度は大手監査法人の地方事務所に願書を出しました。
監査法人トーマツの大宮事務所から内定を貰ったのがようやく1ヶ月後、
奇しくも最善条件での内定でした。それは本当に幸いなことでした。

「地方事務所は、地域の会社と密着していてお互いの顔が良く見える利点があります。
昨今、大学を出たばかりで会社の実務経験を知らないメンバーが増えていますから、会社の中で様々な経験をしてきた吉川さんのような方が仲間に加わって下されば心強いです。
それに、地方事務所のクライアントは小さいので、会社の仕組みを学ぶには良い環境だと思います。
いつか吉川さんが新たな世界に向かって旅立つその日まで、うちで勉強してみませんか?」
「私のような者にチャンスを下さり、本当にありがとうございます!」

この内定は、進路相談に伺った先生方からのアドバイスにも助けられた結果でした。

「いいですか、絶対に見失ってはいけませんよ。
公認会計士の仕事とは決して単なる帳簿の間違い探しなどではありません。
会社は往々にして今そこにある問題に目をつぶり課題を先送りしがちです。
吉川さんも悔しい思いをなさって来たのでしょう?
そういう状況を見分けて、必要があれば早めに方向修正を促すのも公認会計士の大切な役割なのです。
普通の会計士とは違う経歴の吉川さんだからこそやるべきことがきっとありますよ」

「かつてこんなことがありました。
『あそこはしっかりした経理担当者がいるから大丈夫』といわれている支店があった。
それで十年以上も監査を受けていなかった。
私がそこの監査担当になった時、いやな予感がしたのです。
無理にお願いして初めて往査に行った日、経理担当者は行方不明となりました。
夕方になって海に浮かんでいる所を発見されたのです。
調べてみたら数百万円の横領が見つかりました。

でもね、その人が悪いんじゃないのですよ。
全て現場任せにしてほったらかしにしていた会社のマネージメントにこそ問題がある。
そういう問題に早く気付いて指摘ができたら、人の命だって救えるかも知れない・・・
公認会計士の仕事とはそういうものなのです。いかがですか?」

「先生、アドバイスを下さり本当にありがとうございます。なんとか頑張ってみます!」

世界が絶望の海だと知るからこそ見えてくる、感謝という小島です。

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