日本の失われた30年⑬ 群馬のからっ風

群馬名物ともいわれる冷たい「からっ風」が吹き付けるある冬の日の深夜のこと、私は工場の入り口で田中君に会いました。

田中君はシグマプロジェクトを素人集団だと批判していた古参の技術者の急先鋒でした。先般山本君を激しくりつけていたのも彼でしたが、その後、実験の再現性が確立されていく過程で、彼自身のメッキ理論が誤りだったことが明らかになっていました。この現実をどう彼に伝えるべきなのか・・・ 

そんな状況が漏れ伝わっていたのかは分かりませんが、その頃の彼は元気が無いように見え、少し心配していたのです。

「寒いのに今日も遅くまで大変だね」
「また品質不良の尻拭いに来たのです。うちの現場の連中は全くメッキ理論を学ぼうとしない。いつまで経っても進歩しないので本当に困ります」
「田中君達の、その毎日の頑張りが会社を支えているんだね。もしかして、一人で帰る所なんじゃない?」
「まあ、そうです・・・」

ずっと目を伏せたままだった彼は、小さく頷いたように見えました。

「たしか車を持ってなかったよね? それに、昨日から風邪をひいてたのじゃなかったっけ? なんだか顔色が悪いなぁ。会社まで送るから、ここでちょっと待っててくれない? すぐ戻ってくるから、絶対に一人で歩いて帰ったりしちゃ駄目だよ」

無言の彼を食堂に連れて行き椅子に座らせると、私も急いで帰り仕度をし、2人分の熱いコーヒーを持って戻りました。

しかしそこにはもう田中君の姿はありませんでした。会社までは最短ルートの堤防道を歩いたとしても10km以上ある道のりです。深夜の冷たい風の中、彼は一体どうやって帰ったのか? その道を車でゆっくり走ってみましたが、とうとう彼を見つけることはできませんでした。

彼が突然に会社を辞めてしまったのはその翌月のことです。それから間もなく、私は副社長に呼び出され、詰問されました。

「吉川課長、聞く所によれば君は会社の正社員に実験をさせているそうだね。なぜ、そんな無駄なことをさせるのか?

実験なんか、コストが安い派遣社員やアシスタントにやらせておけばよいのだ。いやしくも管理職なら、会社の資源である正社員をもっと知的で高級な頭脳労働に専念させることを考えるべきではないのか?」

どうやら厳しい1日になりそうでしたが、貴重な対話の場にしようと私は腹を決めました。

「技術部員が自分で実験をするのは決して無駄なことではありません。何から何まで全てをやるべきだとは言いませんが、予想されたこと、予想されていなかったことを技術者が自分自身の目で見て確かめ、感じるのはとても大切なことです」

少し間をおいてから、さらに私は続けました。

「古い文献やインターネットで調べた知識を全て真実だと思い込んで鵜呑みにし、それを実験で『証明』してしまうことはそれほど難しいことではありません。一旦思い込んでしまえば、不都合なデータからは目を逸らし自説に合ったデータのみを無意識に選んでしまうのでなおさらです。

派遣社員が自説に合ったデータを持ってくれば『思った通りだ』といい、自説に合わないデータを持ってくれば『実験手順にミスがあった』と叱りつけて再実験をさせる・・・ 

こういう方法でなら、どんなことだって『証明』できてしまいます。科学的な真実とこうした思い込みを見分けるには、技術者が人任せにせずに自分で実験をし、自分で真実を感じ取っていくことが絶対に必要なのだと私は考えます」

「それが君の好きな再現性という奴か? 再現性などなくても、基準になる標準サンプルを入れて比較すればそれで済むことなのではないか? 無駄な拘りだという苦情がたくさん来ている」

どうやらそれが、私が呼び出された直接の理由だったようでした。

「基準にする積りの標準サンプルを投入しても、それ自体に再現性がなければ基準にはなりません。再現性のないものと再現性のないものを比較しても意味がないのです。実際、私が2つの標準サンプルを同時にメッキしてみたら、両者の結果は同じになりませんでした。

それに、自分自身で安定したサンプルが作れない技術者が作業手順書を書き、『品質管理は重要だから工程を安定させろ、基準外れの不良を出すな!』と言って現場や派遣社員の方々に責任を押し付けるのは論理矛盾です」

副社長は眉間にしわを寄せ、目を閉じたまま黙って聞いています。

「例えばこんな話を御存じでしょうか? 

先般、海外工場のメッキ工程で重大な品質事故がありました。対策のため、最新の作業手順書を現地に送り込みましたがメッキプロセスは再現できず不良の発生が止まりません。そこでベテランの技術部員を派遣しましたが、それでも止まりません。とうとう日本人の現場作業員と彼が使っていたメッキ装置とその装置の底に溜まっていた薬剤のヘドロまで浚って空輸して、やっと不良は止まったのです。

現場で何が起こっているのかを、結局のところ技術者は誰一人、正しく把握していなかったのだと思います。それでもなお、再現性を追求する試みは無意味なことだとお思いになりますでしょうか?」

副社長はやっと目を開きました。しかしまだ怪訝そうな表情です。

「だが、メッキを知らない素人がやって来て技術を混乱させているという声も聞こえてきているようだが?」
「はい、まさに皆さんがおっしゃる通りです。誰が正しいのかは私にも分かりません。だからこそ再現性を理解の正しさの物指しにすべきなのです。もし誰かが『私はメッキを知っている』というならぜひ再現性を確立して見せてほしい、再現性が確立できないなら現状の理解をもう一度、慎重に再点検して貰いたい・・・ 私はそう思うのです」

少し間をおいてから、更に私は続けました。

「確かに私自身が学ぶべきことはたくさんあります。しかし他の技術者の皆さんも今直面している壁を乗り越えて前に進まなければなりません。意見がある方は、なぜ私に直接言って下さらないのでしょう? 

実験を自分自身でやることで、シグマプロジェクトに参加してくれた方々は既にたくさんの重要な発見をしています。先般、現場の作業ミスに気付いて不良品の大量発生を食い止めてくれたのは彼等でした。毎年繰り返されていた品質事故はようやく減ってきています。今、社内には新しいメッキ技術の輪が広がりつつあります。人材も育っています。

10年来の技術的な行き詰まりの中で、この数カ月の間に彼等が成し遂げつつあることの意義をどうぞ御理解下さい」

「それなりにしっかりやっているみたいだが、何故、それが本社まで伝わってこないのか?」

話し合いは4時間以上も続きましたが、この時はなんとか分かって貰えたのではないかと感じました。

そして遂に、会社のメッキ工程は生まれ変わりました。

私は3年前に巡回した夜の現場を再び訪ねてみました。かつて1週間かかっていた工程は1時間に短縮され、20kgの機材を扱う作業も自動化されています。工場の一画には新規開発した真新しい自動装置が整然と並び始めており、以前は薄暗かった現場は明るくなっていました。メッキの品質は安定し、最も優れた技量を持つ作業者の作業手順をプログラムに組み込んで工場全体のものとすることができました。再現性が確立されたことで、狙いのメッキ膜厚が半分で済むようになり、世界中の工場のメッキ設備の能力が2倍に向上していました。

それは確かに世界一のメッキ技術だったのです。

それにもかかわらず、会社の曖昧な責任分担が大きなトラブルを招いてしまいました。

「吉川課長、シグマで開発した新しいメッキ機材を、来月から全ての海外工場に展開することになりました。これは本社の決定ですから、至急、準備を始めて下さい」
「え? そんなこと誰が報告したのですか? 開発に1年かかった初号機がやっと昨日出来上がってきたばかりなのです。まだ試運転さえしていません。せめて、あと1ヶ月待って下さいませんか?」

精一杯のお願いでしたが、取りつく島もありません。

「試運転をすると何が分かるのですか?」
「何が起こるか分からないから試運転が必要なのです。それに約束した計画では、まだ3ヶ月の猶予があったはずだと思いましたが・・・」
「何が起こるか分からないなんて、それでもあなたは技術者ですか? 私は今朝の経営会議で副社長に完成報告をしてしまいました。その場で計画の前倒しを約束してしまったのです。副社長は大いに満足されていました。試運転の時間など無い。それなのに何故、吉川課長は一人で経営会議の決定を批判し会社の発展を阻害するのですか?」

決定に逆らう非国民・・・ それは、何処かで聞いたことがある台詞のような気がしました。

経営会議で決まったことなら仕方ありません。精一杯にチェックをした上で、200台の機材を完成させ海外工場に送り込みました。

しかし、やはり強度不足の部材があったのです。試運転をしていれば簡単だったはずの交換が、全ての機材を日本に送り返し、補強し、海外に再送するという大騒ぎとなりました。結果的に半年以上の遅れ、膨大な手間と費用、シグマプロジェクトの不手際を非難する声・・・ 

この混乱の中では、どんな成果も霞んで見えました。同じ様な出来事がその後も繰り返されました。このまま一人でどんなに頑張っても、会社の何かを変えられそうにはありませんでした。

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