日本の失われた30年⑫ シグマ・プロジェクト

「当社は技術力で生きる会社です。吉川課長の目で、当社の生産工程を抜本的に見直してほしい。
ここには何のしがらみもないのだから思いきりやって良いのです。多摩や新潟で果たせなかった思いを、ぜひここで実現して貰いたいのだ」

そう副社長に言われてやって来た高崎の会社の技術には、確かに問題があったようでした。生産装置は老朽化しており、かなり不良品が出ていました。会社のためにも社会のためにも、新しい生産技術を開発し、生産効率を改善しようと思いました。

ところで、実際に現場に入ってみて最初に課題だと感じたのは、生産工程での「再現性」の不足でした。同じものが繰り返して作れていなかったのです。

私が担当したメッキ工程では、メッキ膜の厚さが狙い通りにならず目標の2倍になったり半分になったりしていました。変動が大きく再現性がない(同じものが繰り返して作れない)という現状は、メッキプロセスの理解に根本的な誤りがあることを意味するのかもしれません。

正社員の技術者は自ら実験をせず、殆どの作業を派遣さん任せにしていました。実験に立ち会わず真実を見ようとしない技術者、誤った事実を積み上げたデータベース・・・ このままでは新潟事業所での失敗の二の舞です。

「今、日本の技術の何かがおかしい」

メッキは厳しい肉体労働です。そして技術部と製造現場の間にあるらしい根深い不信感、頻発していた品質事故・・・ 一体どこに問題解決の糸口はあるのか?

私はもっとメッキの勉強をしなければならないと思いました。そこでメモ帳を持って現場で取材をしてみると、

「技術部の連中は誰も実験の様子を見に来ない」
「技術部の書いた作業手順書の通りにやったらメッキにならない」

そんな声を耳にしました。夜間の工程管理の悪さも見過ごせない状況のようでした。正社員の帰宅後、ひと気も少なくなった深夜の工場を一人で巡回してみると、どうやら本来は水道水3回と純水1回、合計で4回する決まりのメッキ後の水洗作業を、実際にはちゃんとやっていない作業者がかなりいるようでした。

その上、最後の仕上げ洗浄に使う「純水」をチェックすると、白濁してまるで温泉のようになっています。水質は品質管理の重要なポイントだと聞かされていたのですが・・・

「この純水は、なんだか普通の水道水より汚いみたいですね」
「そんなこと言ったって、もったいないから1日1回、朝8時にしか純水を交換するなと言われているんだ。不慣れな新人は技術部に言われた通り素直にあの純水で洗浄しているみたいだけど、俺はそんなことはしないから大丈夫だ。この時間帯にあの溜め水で洗ったら却って製品が汚れてしまうさ。実はそれよりこの添加剤の方が効果がある。これは俺だけの秘密のノウハウだけどね。これを使えば短時間でピカピカになるのさ」

この話を聞いた時、私はメッキの品質が安定しない理由がどこにあるのか分かったような気がしました。問題の根は深そうです。

「作業手順書どおりにやるとメッキにならないという話は別の方からも聞きました。でもご存知ですか? 目に見える表面だけの問題ではなく、メッキの進行で形成されるデンドライト組織(針状晶)の隙間には酸性のメッキ液が取り込まれています。水洗に十分な時間をかけて置換しないと腐食の原因になります。水洗の時間の確保はとても大切なんですよ」

するとそれまで威勢が良かった作業者の顔色が変わりました。

「そんな説明は初めて聞いたぞ。本当に大切なことなら、なぜ技術部の連中は現場の状況を見に来ないんだ? あいつらは現場の状況を知らない。俺らが洗ったか洗わなかったかなんて、誰も確認しやあしない。頑張っても頑張らなくても俺らにとっては同じことだ。そもそも20kgもある機材を一晩中、手に持ってバシャバシャ洗っていられると思いますか? これじゃあ正直に頑張るのが馬鹿みたいじゃないか!」

守れない決まりと、守らない作業者。あまりの状況に絶句しました・・・

「こんな状況で、いったい何処から手を付ければ良いのだろうか?」

メッキ工場での生産革新は「自分の手で実験をやろう」と技術部に呼びかけることから始めました。そして現場の設備を借り、技術部有志の手で実際にメッキをしてみることにしたのです。目標は、同じメッキを単純に繰り返せるようにすること。

すぐに「簡単すぎる!」「イノベーションに背を向けている!」といった批判の声が上がった一方で、日ごろメッキ作業の手順書を書いている技術者自身がメッキ作業をしたことがなかったと分かったために大騒ぎになりました。

「今までどうやって手順書を書いていたのだろう? いくらなんでも酷いなぁ・・・」

それでも幾つかの作業の誤りは訂正され、現場任せで実験をしていた時には激しかったメッキ厚の変動は、かなり改善されました。
「もう十分な成果だ」
という声がありましたが、まだこの程度の再現性では正しい実験ができません。

「皆さん、メッキ技術の現状は広大な未知の大陸です。みんなで頑張ってこの大陸の地図を書き上げましょう!」

私は「シグマプロジェクト」の立ち上げを提案しました。シグマとは、①再現性というプロジェクト目標(小さなσ)と、②全ての関係者が力を合わせて頑張るという願い(大きなΣ)を込めた命名でした。そして500万円の予算を獲得して技術部専用のメッキ装置(キューブ)を設置しました。そしてプロジェクトのメンバーにはこう呼びかけました。

「メッキ液の準備や後片付けは人任せにせず必ず自分の手でやりましょう。技術者が汚れ仕事から逃げ回っていては駄目です。現場の作業者の苦情も少しは聞いてあげて下さい。きっとそこに真実があり、良いヒントもたくさん見つかりますから」

すると技術部からは、

「自分で実験するのは効率が悪い」
「準備や後片付けみたいな低級な仕事は正社員のやることじゃない。派遣や現場の仕事だ」
「そもそも吉川課長は設備屋上りじゃないか。素人にメッキの何が分かるのか?」

など、ありとあらゆる批判が噴出しました。

「キューブ設置を強行したけれども、もし再現性が確立できなかったらどうするのか? 転職早々なのに失敗したら大変だ・・・」

ともかくもまず技術部内での融和を図る必要性を感じ、設備系のメンバーだった山本君にプロセス系の実験の実習をしてくるよう指示しました。ところがその山本君が、プロセス系のベテランの田中君から酷く怒られていたことがありました。

「山本君、さっきはどうしてあんなに怒られていたのだい?」
「今、プロセスチームには、工場でやっている洗浄工程の一部は無駄な作業だと言う議論があって、洗浄なんかしなくても製品が汚れていないことを証明するSEM(走査型電子顕微鏡)写真を撮って来なさいと指示されたのです。
でも、手慣れた派遣さんがやれば何も写らないのに、私が一生懸命にやると何故かたくさんゴミが写っちゃうんです。さっきはそれを怒られていました。私は気が利かないみたいです。吉川課長にはいつも迷惑をおかけしすみません」

「そこで謝らなくても良いと思うけどね。仮に山本君の撮影条件が技術部の手順書通りではなかったのだとしても、ゴミが写っていたならそれが真実なんじゃない?」
「最初、私も田中さんにそう申し上げたんですけど、きちんと手順通りに撮影して比較しなければ科学的な比較にならないのだから、そんな反論は不謹慎だと叱られました。手順書を守って撮影すればゴミなんか写らないはずだというんです」
「何か変な結論だな。間違っているのは山本君ではなくて手順書の方みたいだけど・・・」

じっと見ていると、どの技術部員も、アシスタントの派遣さんと丸1日もかけて趣旨説明という打ち合わせをし、自分の憶測をじっくり教え込んでいました。その期待に答えようとして派遣さんは必死に頑張り、実験データを無心に作り込んでいきます。そんな手順のどこかで、技術部員の憶測が命令にすり替わっているようでした。

「やはり私たちは自分自身の手で実験をするべきではないでしょうか? 派遣さんとの打ち合わせに費やしている時間で大抵の実験は済んでしまいます。時間がもったいないです。派遣さんに頼むにしても、せめて実験に立ち会ったらどうでしょう?」

しかし私がそんな疑問をぶつけてみたことが技術部内での波紋を更に広げました。シグマプロジェクトを激しく非難して出て行ったメンバーもいました。毎日、胃が痛みました。

それでも、とうとうメッキ厚の再現性は確立されたのです。

シグマプロジェクトを開始してから1年後、メッキに関する誤解は次々に訂正され、プロジェクトのメンバーが自分自身の手で行う実験時の変動は確実に1%未満に収まるようになっていました。そしてメッキの真実が明らかになっていったのです。

「皆さん、報告書を憶測で飾る必要はありません。分からなかったことは分からなかったと正直に書けば良いと思うのです。

たとえ科学的な実験データであっても、実験者の主観の影響を受けます。ですからどんな状況でやった実験だったのかをなるべく正確に記録して下さい。そして、予想したこと、新しく見つけたこと、実際に自分で確かめたこと、まだ確認できていないこと、ネットで調べたことをきちんと区別してデータベースにしていきましょう。

誤った記録は人を惑わせ、技術の進歩を妨げます。正確な事実の積み上げこそが科学技術の基礎なのですから」
「吉川課長、私は10年来、ずっと無理だと思っていました。『メッキは生き物だ』なんて言い訳をして逃げていました。他社でもここまでやった事例を知りません。でも、やればできるものなんですね」

見かけは単純な技術の問題が、本当は人の「心」の問題だったりします。そんな壁を乗り越えてシグマロジェクトに最後まで参加してくれたメンバーは技術者としての自信を深めたようでした。その成果を副社長に報告すると、
「遂にメッキ工程に奇跡が起こった!」
と激賞されました。

「いつも厳しい副社長がこんなに人を褒めるのを、今まで聞いたことがない」
「これは滅多にないことだ、本当にありがたいことだ。ちゃんと分かっているか?」
「ああ、ありがたいお言葉だ。ありがたい、ありがたい、本当にありがたい・・・」
と、子会社の社長は何度も何度も言うのでした。それは危険な兆候だと感じました。

そして「その日」はやってきました。
ある定例報告会の時、なぜか副社長はひどく不機嫌だったのです。

「いつも御指導ありがとうございます。月例報告を申し上げます。今般、確立した再現性を踏まえて検証をした結果、新たに多くの発見がありました。品質面での余裕ができたことで、世界の全工場の生産能力を2倍に向上することもできそうです」
「再現性だと? そんなもんはなぁ、技術じゃねえんだよ!」

この突然の叱責を境にして風向きはすっかり変わりました。定例報告会は中止され二度と開かれなかったのです。この事件の後、私が高崎の会社で大きなプロジェクトのマネージメントを任されることはありませんでした。

改めて、生産技術というのはとても難しい仕事だと思います。新しい技術を開発すれば、それは必ず誰かの作った古い技術を否定することになるからです。

課長・部長・役員・社長・・・ それが誰であろうと、自分が開発した技術や仕事を否定されて本音で嬉しいと思う人はいないでしょう。ですから、技術の世代交代は慎重に進めなければなりません。ところが私は、知らず知らずのうちに関係者の誰かが大切にしていた過去の業績をひどく踏みつけてしまったのかもしれません。新しい職場で、なんとか生き抜こうと頑張るあまりに・・・

「人それぞれが大切にする何かを、まずは尊重しなければ・・・」

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