ところで、アメリカ911テロの時に参加していた環境計量士という資格の合格者実習が、その後の進路を変えてしまう大きな転機になりました。
実習を受けるためにつくばへ向かう途中、たまたま高崎で途中下車し、ある会社の面接を受けました。この頃、状況はまだそれほど切迫していたわけではありませんが、遠からず自分がリストラに遭う運命だということを覚悟しており、改めて面接の練習をしておきたかったのです。
「どんな質問をされ、どんな風に答えるべきだろう?」
しかしその面接は練習では済みませんでした。再面接を希望する旨を告げられてただ一人最後まで、ひと気も無くなった薄暗い会場に残されました。
「履歴書を拝見しましたが、とても良い仕事をしていらっしゃったと思います。それに資格も語学も確かな実績です。生産技術部の課長としてお迎えしましょう。承諾下さるまで何カ月でも待ちます。副社長に紹介します。ですからどうしても、うちに来て欲しいのですが・・・」
それはちょうど台風が関東地方に上陸した日でした。次第に強まる風雨の中、群馬からつくばに向かう電車の運行を案じながら、どうやって断ろうかと悩みました。
その翌日つくばで計量実習が始まりましたが、2人組を作って1週間行われる実習の相方となった梅田さんという方が、たまたま前日に高崎で面接を受けた会社の技術者だったという途方もない偶然に、この時私はまだ気付いていませんでした。無口で職人然とした彼は、きちんと会社名を名乗らなかったのです。
「さあ、始めます。皆さんは難しい国家試験にパスしたプロなのですから、くれぐれもその積りで。テキパキやらないと不合格にします。そこの組は、まずコニカルビーカーを取って来なさい」
「すみません、コニカルビーカーってどれでしたでしょうか?」
「何だね? ふざけたこと言っていると、本当に落第にしますよ!」
「吉川さん大丈夫です。これがコニカルビーカーですよ」
化学の実務経験に乏しかった私は、5日間の実習中ずっと梅田さんに助けて頂きました。それでなんとか落第もせずに済みました。
この頃、私は新潟事業所で、ある製品の部材の切削精度がどうしても上がらないという問題に取り組んでいました。事業所では10年間、誰も解決できなかったというその難問の原因がどうやら切削機のコレットチャックという機構にあるということを見出しました。
続いて対策の検討に入った時、遠く恵那山の麓にあるという取引先の工場を見学できると聞き、ヒントを求めて出かけて行きました。その日、岐阜で案内をして下さるという御担当者の名前を聞き、どこかで聞いた名前だったと思いました。
「部長! やはり黒田部長だったのですね。いつから? どうして? 部長はここにいらっしゃるのですか!」
それは正しく、かつて合板事業の本社企画部にいたあの黒田部長だったのです。
「ああ吉川君! 本当に久しぶりだねぇ。まあ、入って、入って。いや事務所じゃない、僕の居場所はこっちなんだ」
部長に案内された場所は、風通しの悪い工場建屋の一隅に設置された小さなビニールハウスの中でした。
「これ、なんだか鳥小屋みたいで変だろ? この事業所も手狭で、どうしても事務所には机が貰えなくってねぇ。ちょっと恥ずかしいな。でもこのビニールハウスの御蔭で去年からエアコンが使えるようになったんだから、会社に感謝しなくちゃね」
部長に連れられて一通りの工場見学を終えた後、改めて訪問の背景を伝えると、部長は直ぐにおっしゃいました。
「コレットチャックの問題だって? なんだ、知らなかったのかい? それは本社企画部に移る直前に僕が新潟事業所でやった仕事だよ。もちろん問題があるのは分かっていたけど、10年前は大した加工精度も必要なかったし、そもそも予算が足りなかったんだ。贅沢はできなくてね。
でも君が半年かけて再発見してくれた通りで、コレットチャックで精度が出せるわけはないんだ。精度が必要になった時には設備を更新する計画だったはずだが」
「そうだったのですか。部長がずっと新潟に居らっしゃればとっくに解決していたはずの問題を、会社では10年もかけて再検討していたわけですね。その間、どれ位の不良品が出て、どれ位の損失になったでしょう? もったいない話だな・・・」
この時、私はそれまでずっと疑問に思っていたことを口にして良いものかどうか迷っていました。
「それにしても・・・ なぜ部長はここに居らっしゃるのですか? 実はずっと前から、もし部長に会えたら伺ってみたいと思っていたことがあったのです」
「言ってみなさい」
「不躾なことをお尋ねしてすみません。部長がここに異動をなさったのは、合板事業の新工場プロジェクトに反対なさったからだったのですか? 以前そういう噂を本社で聞いたのです」
「・・・」
黒田部長は沈黙しました。私は不用意な質問をしてしまったことを後悔しましたが、やがて部長は、ゆっくり何かを噛みしめるようにこうおっしゃいました。
「・・・そんな質問には答えられないなぁ。・・・と言うよりね、実は僕自身にもよく分からないんだよ。反対なんかしてないさ。確かにあの時、プロジェクトに関する事実関係を正しく纏めるよう常務に指示をされ、できるだけ客観的な数値を報告しようとはしていたけどね。まあそんなのは昔のことさ、今更くよくよ思い出したって仕方がないじゃないか・・・ で、あの新工場はどうなったんだ?」
「品質は維持して、なんとか最悪の事態は免れたと思います。どうやらお客様には迷惑をかけずに済みました。しかし、やはり生産性が期待値に届かず、膨大な設備投資が今も会社の収益を圧迫し続けています。幸い、第二ラインの建設は土台で止まりましたが」
私は新工場で目の当たりにした厳しい現実を思い出していました。
「あれから私も調べてみましたが、巨費を投じてST工法を導入し自動化もしたにもかかわらず、全くコストダウンにはならなかったようです。一体何のための新技術だったのか? そして自動化だったのか・・・ 技術的視点だけなら、いろいろな見方があるのかもしれません。しかし数字になってはっきり現れてしまう会計指標は残酷な真実です」
「そうだな・・・ とにかく今日は楽しかった。わざわざ訪ねて来てくれて本当に嬉しかったよ。今日の食事は僕が奢るからな。こんな遠い所にはね、最近じゃ誰も来てはくれないんだ。でも今度、大きなバイクを買ってさ、時々昔の遊び仲間と再会してツーリングするのが今の楽しみなんだ。人生の楽しみ方なんて幾らでもあるものさ」
秋の大きな夕陽を背にして語る部長の肩は、しかしどこか寂しげでした。
10月・・・
911テロの影響もあって景気が再び悪化していました。この頃、国内の加工組立型の製造業は急速に競争力を失ってしまったようです。当初は耳慣れなかった「リストラ」という言葉がいつの間にか日本語として定着し、各社で実施されるようになっていました。めっきり寒くなり、花壇の綿の花も枯れ果てた頃、新潟事業所の生産技術部でもリストラが始まりました。雪国のあの冬曇りの空の下、各グループの「余剰な人員」が次々とリストラ・リストに書き出されていったのです。
「保全Aグループは3人、保全Bグループで2人位は調整が必要かな。さて技術開発グループはと・・・ ああそうだ、余っているのは吉川さんだったね。誰も希望しない子会社がインドネシアの山奥にあるらしいけど、なんだか聞いた所ではたいそう英語も練習しているそうだし、ちょうど好いじゃない」
暗く重い空の下、私だけが名指しされてしまいました。
ちょうど1年前、保全技能競技大会というイベントに私は重大な決意で臨んでいました。機械側のメンバーだった私は、電気部門の大会に出場するよう命じられたのです。それはペーパー試験だけではなく実技の正確さも競う困難な競技でしたが、もし入賞できなければリストラされるという噂がありました。私は実技経験が乏しかったので、夜の作業所で黙々と練習を続けていました。仮に自分の前途が厳しいなら、不慣れな電気保全を習得してでも新潟で生き延びようと思ったからです。
「たたき上げの我々でもなかなか入賞できないのに、あなたのような素人さんじゃあまず無理だろうね」
電気系の課長からそんなことを言われていましたが、結果的に新潟県で一位となり表彰されました。しかし・・・ それを報じる正門脇の壁新聞の大きな見出しが、恒例通りなら
「吉川さん優勝おめでとう!」
とあるべき所、
「吉田さん優勝おめでとう!」
となっていて、翌月まで訂正されませんでした。それは明らかに危険な兆候でした。
「出る杭は打たれる、出ない杭は朽ちていく」
11月・・・
例年通りに降り出した冷たいみぞれが、重く湿ったボタン雪に変わっていました。新潟事業所の大会で、私はコレットチャックの問題について発表しました。大会の後、私のリストラを示唆していた電気系の課長がわざわざやって来て
「最後を飾るにふさわしい立派な仕事だったじゃないですか。この仕事ぶりなら、きっとどこかでなんとかやっていけますよ」
と言いました。最後とは、いったいどういう意味なのか・・・
12月・・・
もはや事業所には仕事らしい仕事もありません。あちらこちらに頭を下げて回り、グループの若手社員の落ち着き先を確保しました。しかし私自身の受け入れ先は見つからなかったのです。
「せめて30代前半位の素直な人ならねぇ」
「素直な人・・・ ですか。私も言われたことは最後まできちんとやりますが」
素直な人とは一体どんな人なのか? やりきれない思いで事務所の裏の花壇を見回ると、ずっと放ったらかしにしていた綿が人知れずたくさん実をつけていました。その柔らかな綿の実を1つ1つ丁寧に摘み取ると、スチームが入って暖かくなった事務所の一隅に飾りました。そして人生初めての転職を決めたのです。行く先は、あの高崎の会社です。
「私の様な跳ねっ返りを迎えて下さることは本当に感謝です。どんなことでも私にお任せ下さい。この御恩を忘れず会社のため精一杯に頑張ります。どうぞ宜しくお願い致します」
退職日は翌年の1月20日と決まりました。
「12年間お世話になりました。今まで本当にありがとうございました」
「ああ、そうだな」
所長の返事はそっけないものでした。
静かな出発でした。知人が急いで届けてくれたお弁当を持って車に乗りました。新潟の冬曇りの空を離れて長い長い関越トンネルを抜けると、そこには群馬の青空がいっぱいに広がっていました。
その空の下、高崎の会社に初出勤すると、私の仕事は近くの子会社でメッキ工程の技術支援をすることだと告げられました。
翌2月、その子会社に着任の挨拶に行った時、なぜかそこに見覚えのある顔を見つけて私は当惑しました。
「あれ? ここに知人はいなかったはずだけど・・・ あっっ!」
それは、前年のつくばの計量実習でお世話になった梅田さんだったのです。彼も高崎の会社の社員で、その子会社に3年間の出向をしていたのです。しかも、まるで私と入れ替わるかのように、出向期限はその2月末までだったのでした。
「まさか梅田さんの会社が、高崎の会社だったなんて・・・」
こんな偶然が起こる確率を見積もると100万分の1でした。偶然だと理解はしつつも、初めての転職という場面で起こったこの出来事の不思議さを時々思い出しては噛みしめました。
「この転職には、確かに何かの縁があり必然があったのだ」
そう自分に言い聞かせることで、私は後日、大きな勇気を貰うことになります。
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