日本の失われた30年⑩ 会計との出会い

誤った設備投資、不適切なコスト管理、プロジェクトの失敗、その度に無駄になる技術者の仕事・・・ 

そんな経験を繰り返すうち、私はどうしても自分の手でプロジェクトやお金の管理をやりたいと思うようになりました。
自分自身や日本の製造業の前途への深刻な危機感もありました。
とにかく生き抜いて行かなければなりません。

「このままでは会社は良くならないし、自分の居場所も見つからない。なんとかしなければ・・・」

だからこそ、どうしても経営やコストの知識が必要だと思いました。

「仕事をしながらでは公認会計士は無理だとしても、簿記くらいなら頑張れないか?」

試験会場では、偶然にもかつて私にテキサス行きの片道切符を発令しようとした多摩工場の工場長にばったり鉢合わせしたことが強く印象に残りました。

「早期退職を勧告されたんだ。会社は僕を追い出そうとしているらしい。日本は終身雇用の国じゃなかったのか? もう誰も信用なんかできない。君も早く資格を取って独立した方が良いと僕なんかは思うよ」

そんな風に工場長が嘆いていたことに私は大きなショックを受けました。工場長は御自身のマネージメントにも同じ問題があったことに気付いていなかったからです。

厳しさを増していく事業環境の中で、ミスマネージメントの「加害者」が今度は「被害者」となっていくという連鎖がそこにはありました。

1997年の春、宇宙5ヶ年計画の合間を縫い、簿記1級試験に挑戦しました。たった4ヶ月の過去問演習で臨んだ試験でした。

ほんの少し過去問の演習をしただけという心許ない状況ではありましたが、いつも苦手だった商業簿記がこの時は過去問中心の出題で手堅く感じられたため、私は試験中に合格を確信したのです。

自分でも不思議な体験だったのですが、試験中に得体の知れない笑いがこみ上げ止まりませんでした。
そんな自分を奇妙だと感じました。

しかし試験後半、得意なはずの工業簿記で思わず苦戦し、科目の足切ラインを割り込む虞が生じました。焦っているうちに時間不足、それが原因で磐石の自信があった原価計算でケアレスミスをしました。その些細なミスの影響は、後に続く小問にも及び大きな失点となりました。そして結果的には科目の足切を免れたにも拘らず、総合点が2点足りずに不合格になってしまったのです。

試験中にこみ上げた得体の知れない笑いと、たった2点不足の不合格、それは極めて異常な体験でした。

「原価計算のケアレスミスが、あと小問1つ後だったら合格していたのになぁ・・・」
そう思うと、いつまでも悔しさが治まりません。
でも案外簡単そうだったという感覚もあり、
「あと少し知識を補強すれば簡単に合格できるのではないか?」
と信じて受験を続けました。

しかし現実は厳しく、ようやく合格できたのは挑戦7回目のことです。
その間に5年の歳月が経過していました。

それでも「得体の知れない笑い」の悔しさがあればこそ、投げ出さずに簿記を勉強し続けたのですし、そうやっていつの間にか何度も何度も繰り返して学んでしまった簿記が、知らず知らずのうちに後で会計士試験に挑むための基礎となっていったのです。

それはまるで、見えない何かに導かれていたかのようでした。

5年もかかって簿記1級に合格した翌月、スペースシャトル・コロンビア号が墜落事故を起こしました。この事故で私の宇宙への夢はいよいよ決定的に絶望的になりました。おりしもITバブルの崩壊で会社の業況も急速に悪化していました。

深刻な閉塞感の中、とうとう私は公認会計士試験に挑戦するという無謀な決意を固めました。それは2003年4月29日、40歳を目前にした日のことです。

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