工場の朝は早いです。
多摩工場の始業時間は8時半でしたが、会社の寮から工場までは2時間かかったため、毎朝6時には会社に向かわなければなりませんでした。
6時といえば冬場はまだ暗い時間帯ですが、電車が多摩川を渡る時、川面に映る大きな朝日を眺めることができるという楽しみがありました。
また、多摩工場の作業着は質素なネズミ色の作業着でした。
それでも毎日着ていれば体に馴染み、あちこちに付いた緑の染みを見る度に「これが技術者の仕事着だ!」という誇りが兆してもきます。
「まあ、格好は良くはないけど、何を着ているかで技術力が決まるわけじゃない」
私が配属された子会社の技術部は総勢10名、全員が親会社からの出向者でした。
合板事業は第一工程である「塗装工程」と第二工程である「貼合せ工程」で成り立っていましたが、私以外の9名全員が研究所に配置され、当時画期的な貼合せ技術として期待されていた新工法(ST工法)の開発に取り組んでいました。
その一方で塗装工程の方は手薄になりがちで、配置された技術者は私だけだったのです。
それでも辛うじて私が塗装担当になった背景には、ある爆発事故がありました。
「それは本当にすごい事故で、おかげで会社は、この辺ではすっかり有名になっちゃったんだ。『ああ、あの爆発事故の会社ですね』ってね」
私の入社2年前、多摩工場の塗装工程は着火事故を繰り返していましたが、なんとか大事に至らずに済んでいました。ところがある日、装置に掃除用のボロ布が引っ掛かったことで多量の塗料が漏れ出し、一気に乾燥炉に持ち込まれてしまったのです。乾燥炉の爆発で工場の天井は吹き飛び、数トンの鉄骨が敷地外の公道に落ちているのが発見されました。
そんな状況でも死者が出なかったのは奇蹟でしたが、行政指導が入り、作業者の命を危険にさらしていた塗装設備は使用が禁止されたのです。
会社は止む無く新しい塗装技術を導入しました。ところがこの新技術は未熟なもので、次々と深刻なトラブルを引き起こしました。色替作業の厳しさも課題でした。私の配属にはどうやらそんな背景があったのです。
「吉川さんは新人なのに、たった一人で酷い工場に配属されてきましたね。すごーく期待されているか、全然期待されていないかのどっちかなんだろうなぁ」
でも、シャトルコーターの成功が工場の空気を変えました。状況が悪かったからこそ、自分の工夫と努力で頑張る余地があったのです。
本社では、新しく着任した企画部の黒田部長に呼び止められ、こんな風に励まされました。
「シャトルコーターはとても良い仕事だったねぇ。おかげで会社の競争力は随分とアップしたし、工場も明るくなったみたいだ。多摩工場では、いつも一人で大変だと思うけど、今度は君の後輩達が君の後に続けるよう、しっかりと面倒を見てやってくれよな。技術の根幹っていうのはさ、やっぱり人なのだから、くれぐれも宜しく頼むよ」
「はい、頑張ります!」
その時、私は本当に嬉しかったのです。
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