日本の失われた30年② 最初の発明

何処にでも取り組むべきことはきっとあります。
多摩工場の塗装工程に入って夜勤もやり、一緒に働いているうちに、私にも皆さんの苦労が見えるようになってきました。

現場では、とりわけ塗装色の切り替え作業(色替作業)が厳しい仕事でした。塗装色が変わるたびに装置を取り外し、分解し、洗浄し、組み立てて、また設置しなければなりません。1色当たり3人がかりで2時間かかる作業です。

多量のシンナーを浴びた作業者は、しばしば警察の検問にひっかかり、
「物凄くシンナー臭くてフラフラの人がいるんだけど、おたくの従業員なんですか?」
そんな電話がかかってきていました。

「この状況をなんとかしなければ。でも、誰がそれをやるのか?」
自分がやらなければ作業者は救われないという現実に、私は気が付きました。

そんなある日、私は2時間の色替作業を1分に短縮できそうな方法を思いつきました。スイッチ一個を押すだけですから作業はとても楽になります。停止時間は実質ゼロなので、工場全体の稼働時間を2倍に増やせるでしょう。小さな設備投資で会社の生産性を大きく改善し、作業者にも地球にも優しい技術になりそうでした。

しかし新入社員の私が言うことなど、誰も信じてくれません。

「そんなに上手い話があるはずない。それにね、もし失敗したら君はどう責任を取るのだ?」
「そういう話には、いつも裏がある。今までだって会社には何度も裏切られてきたものなぁ」

話を聞いたら喜んでくれるだろうと思った現場の作業者でさえ私を疑いました。でも確かに皆さんの言う通りでした。もっと良く構想を練り、きちんと説明をしなければ駄目だと思いました。

そこで私は、小さな模型を作って問題点を整理し、設計を洗練させていきました。また、この発明に良い名前を付けてアピールするのも大切だと思いました。学生時代の憧れだったスペースシャトルのことも思い浮かべながら、往復する玉(シャトル)を有する塗装装置(コーター)というコンセプトで、新しい装置を「シャトルコーター」と命名したのです。

その後、工場長を説得するのに3年かかりましたが、遂に装置の開発費3千万円を認可いただきました。

とはいえ、うまくいくはずが無いという声は依然として根強く、許可された工期はたったの5ヶ月。その期限が迫った年末頃になって、シャトルコーターは技術的に深刻な問題にぶつかってしまったのです。それは、あの粗末な模型ではどうしても確認できなかった部分でしたが、言い訳はできません。絶体絶命のピンチでした。

会社の事情で、製作を引き受けて下さった町工場は北九州にありました。技術的な困難にぶつかると、私は帰りの飛行機でメモを書き、解決策を考えました。

「吉川さんが羽田に着く頃に、必ず電話がかかって来るよ!」
そう言って、皆さんも作業所で待っていて下さったのだそうです。

そんな心遣いに支えられ、対策を思いつきました。正月休み返上でテストを繰り返し、ディテールを決めていきました。

操作ミスで配管が破裂し、頭から足の先まで緑の塗料をかぶってしまったこともありました。作業着も下着も塗料に染まり、みんなまるで緑の妖精です。

「すまんが、会社に新しいパンツ持って来てくれんとか?」
「あんたら、そこでなにやっとると!」
電話口で九州男児の皆さんは、奥さんに叱られていました。

それでもどうやら期日通りに装置を完成させ、設置完了したのです。

試運転はたった3日間の約束。
「そんな装置、どうせ動かないのだから直ぐ撤去しなさい。工場は忙しいのだからね」

しかし3日後になっても撤去しろと言われません。どうやら工場の皆さんが
「撤去しないでください!」
と工場長に直訴に来たとのことでした。その時、
「会社を辞めずに頑張って良かった!」
と私は思いました。

結局シャトルコーター初号機は、2年後のバージョンアップまでフル稼働しました。
私は東京の本社ビルに呼び出され、重々しく表彰されました。

「吉川さん、今日はなにやってるの? また、何か発明しようとか企んでいるんでしょう!」
「へへっ、ばれたか。でもまだ内緒だよ」

作業者の皆さんは、私に心を開いてくれました。シャトルコーターは特許化され、ライセンスが販売されました。業界誌に特集記事が載り、海外からも電話がかかってきました。

全てが順調な成り行きに
「技術の仕事は楽しい!」
と私は思いました。そして、
「塗装なら塗装という分野で、世界の第一人者を目指そう!」
この時、確かに私はそう考えていたのです。

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